深く哀しみつつ、半歩前へ [2008・02・24&06・28



(1)

 クラウディア・ブラックという「アダルト・チルドレン」の概念の生みの親が書いた『子どもを生きればおとなになれる』(アスク・ヒューマン・ケア刊)という本を最近読みました。

 アダルト・チルドレンとは、親の愛情が欠けていたり、あるいは逆に過剰であったり、不幸な場合には親から虐待にあって子どもとして十全に生きられなかったために、長じて(年齢的には十分)大人になっても子どもの時に(生き延びるために)身につけざるをえなかった感性や思考様式、他者との関係の持ち方などが障碍となって今を活き活きと生きられない――たとえ結婚や出産を経ていたり、社会的に有意義と認められる活動をしていてさえも――ケースをいうのではないか、というのが私の理解です。

 理想的な子ども時代を送れる人間など殆どいないでしょうが、乳幼児期に(三つ子の魂百まで?)親に無条件で抱きとめられるという体験を通してしか生まれない自分自身への根源的な(存在論的な)〈確信〉を持ちえてないために、どうしても基準を“外”に求めて右往左往したり、他者との“距離感”をつかめずに結果として関係性の破綻を来したり(他人とは自分に対して危害を加える可能性のあるものか逆に自分にとって都合良く利用する対象でしかないととらえやすい)、はたまた親から被った過ちを自分もまた子どもに対して繰り返してしまう「世代間連鎖」などが、アダルト・チルドレンと称される所以ではないか、と私は経験的に捉えています。

 一言で言うなら、大人に羽化できていない(インナー・チャイルドを抱えた)未成虫状態をさすのでしょうが、では、どのようにしたら過去のくびきから脱して成熟した人間になれるかという(現実的かつ切実な)課題にカウンセラーとしての実証経験に基づいて応えたのが本書です。(原題は Changing Course―Healing from Loss,Abandonment,and fear)

 著者の具体的な処方箋をみると――

その一:過去の直視&言語化=語りたくない(語れない)過去の体験を言葉に出して語れる場・人を持つこと。

その二:過去と現在の架橋=過去の否定的な体験から(殆ど潜在意識的に)身につけてしまった“枠組み”が現在の生き難さを招いていることに気づくこと。

その三:上の“枠組み”を破るある儀式(実際にどんなことを行うかは本を読んで下さい)。

その四:成熟した大人としての感性・思考様式・対人関係の持ち方などといった新たな“枠組み”を築くための日々の実践。

 という順を追って指針が述べられていますが、中でも著者が強調しているのは(その一)の過去の直視&言語化です。この過程は、自分のアイデンティティを否定するようなもので苦難に満ちた作業ですが、そこを経ないで先に行ってしまうと――例えば、(その四)で巷にあふれるポジティブシンキング的なハウツー指南書に書かれてあることを努力してみても――根源的な解決にはならないだろう、と繰り返し指摘されています。

 そして、最終的には、過去との和解=子ども時代の自分に苦しみを与えた人間(親など)に面と向かって問題を指摘し、かつ人として赦すことが課題として設定されています。インターネットのアマゾン書店のブックレビューでも、アダルト・チルドレンを自認する何人かの読者が、この本によって救われたと書かれていましたが、本当に、優れた手引き書ではないかと思います。


(2)

 話は変わりますが・・・
 私は整体協会の身体教育研究所というところで野口裕之先生(通称ダン先生)について8年ほど整体を学んでいます。先月(2008年1月)末の稽古会でダン先生が、次のようなエピソードを語ってらっしゃいました。

 先生は四人のお子さんを育てられましたが、最初の子どもが生まれてまだ半年ぐらいの時(先生が二十代後半?)、団地の階段で我が子を落としてしまったそうです。ダン先生はあわてて父親である整体の創始者・野口晴哉のもとに駆けつけて赤ちゃんをみてもらったところ、野口晴哉はしばらくあやすようにしてから「大丈夫だ」と言って手渡したそうです。赤ん坊はずっしりと重くなって先生の手に帰ってきました(整体では、赤ちゃんが軽いと危険信号だと捉えます)。

 ダン先生はそれでも心配で「ずっと、大丈夫だよね」と聞くと、野口晴哉は言下に「ダメだ。おまえが落としたんだ」と答えたそうです。すると青ざめたダン先生の顔を見て、野口晴哉が慰めるように「それが人生というものだ」と語った、と・・・。

 私も親として二人の子どもを不注意(!)で縁側からコンクリートのたたきに落としてしまった苦い経験がありますが、先生のお話を聞きながら、取り返しのつかないことをしたという親の悔恨と、委ねるしかない親の手から地べたにたたきつけられるという子どもの恐怖は、天才・野口晴哉をしても拭い去ることはできなかったのか、と暗澹たる思いにとらわれていました。

 しかし先生はこのエピソードを話した後、「整体とは、病気を治すことでも癒しを与えることでもない。たとえ傷ついた過去を引きずっていても、それでも半歩でも前に進むために活(かつ)を与えることだ」と、語られました。
 「整体とは、深く苦しみ、深く悲しみ、深く喜ぶことだ」、とも付け加えて。


(3)

 上記の文章を書いてから程なく、桜も咲き始めた弥生三月のある日曜日に、私は結婚式に招かれて千葉に赴きました。楽天堂で無農薬無肥料栽培の豆を仕入れている農家のご長男が目出度く結婚される運びになり、私も列席の栄に与(あずか)ったのです。

 式場附属の教会での誓いの言葉、会場を移した披露宴では新郎新婦のスライドショー、お色直しにケーキカット、最後は両家を代表して新郎の尊父が礼状を読み上げるという、まさに型どおりの結婚式だったのですが――この型通りに式がつつがなく運ばれ、祝い祝われることの幸いを、私は改めてかみしめていました。

 というのもその前々日に、私は或る葬儀の場で、全く逆の体験をしていたからです。未明に三十代前半で亡くなった知人女性の母が催した「お別れの会」に妻と二人の子ども(上の娘には当日にあった小学校の卒業式で着た服を着せて行かせました)を伴って参列したのですが、一歩会場である女性の実家に足を踏み入れた私は、言葉を失ってしまいました。介護用ベッドに安置された遺骸の隣で、二三十人が飲み食いをしている。誰も喪服など着ていない、居酒屋とみまがう雰囲気の中で・・・・。

 一歳の子を遺して逝く母親に、大往生などありえないでしょう。どんな信仰を持っていても、いえ無信仰であっても、死者に臨む最低限の礼儀というものは存在すると思います。私がその場で感じたのは、一言で言えば“死者への冒涜”でした。

 帰り道、星空の下、「××さん、かわいそうだね」と子どもたちが言ったまま、皆押し黙って家までの帰路につきました。家族いがいには窺い知れぬであろう母娘(おやこ)の積年の葛藤、そして秩序を与えるべき“父”の決定的な不在・・・。型を喪(うしな)う――親という一つの型を伝えられなかった、伝えられない――ことがどれほどの不幸を招くか。私は暗澹たる気持ちになっていました。


卒業式で子どもたちの歌った歌

       巣立ちの歌

1.花の色 雲の影 なつかしい あの思い出
  過ぎし日の 窓に残して 巣立ち行く 今日の別れ
  いざさらば さらば先生 いざさらば さらば友よ
  美しい 明日の日のため

2.風の日も 雨の日も 励みきし 学びの庭
  かの教え 胸に抱きて 巣立ち行く 今日の別れ
  いざさらば さらば先生 いざさらば さらば友よ
  輝かしい 明日の日のため


(4)

 何を隠そう私も、二十年近く前、型を見出そうと苦闘していました。職業としての高校教師&平和運動の活動家という自画像(アイデンティティー)は抱いていたのですが、意識的な存在としての“わたし”と身体の欲しているものの乖離が、次第に露わになって飽和点に達しようとしていたのです。三十過ぎてなお男として一人前に結婚して家庭を持つこともできず、未だに自分に確信(芯)を持てない焦りと苛立ち・・・。

 私の父はいわゆる戦中世代で、予科練で終戦を迎えていました。本人が言うには、「特攻に往く手前だった」そうです。十代の後半、これから人生設計を描いていく時に時代の嵐とはいえ価値観が180度転換する体験を余儀なくされ、背骨をへし折られた人達の一人です。父は息子に、男はどう生きたらよいか、父親のあるべき姿を伝えられませんでした。

 今から思えば私は自分の規範となるべき型を体現した人間(いわば“師”とも呼ぶべき存在)を必死に求めていたのでしょうが、周囲に見出しえず、他人(ひと)には語れぬ深淵を抱えたまま、飢えて彷徨(さまよ)う獣のように体に関わるワークショップを経巡っていました。

 演出家の竹内敏晴さんが主宰する〈からだとことばのレッスン〉に参加した時のエピソードを書きます。5日ほどのワークショップの最終日でした。「対角線の出会い」というレッスンが行われました。フロアに10m四方ほどの場を区切り(別にテープをはるようなことは何もしませんが)、そこに二人の人間が向かい合って立ち、感じるままに動く。何をしてもよい。ただし言葉は使わない、というものでした。他の参加者は周囲に座って見守っています。

 四十歳前後の男性が指名され、手を挙げた二十代の若い女性との間で最初のレッスンが行われました。終始にこやかに笑みを浮かべる男性に対して、女性の方が何度か関係を持ちたいという素振りを示しましたが、年上の異性ということもあって遠慮が先立ち、男性も積極的に応じないまま、不完全燃焼のような形で終わりました。

 すると竹内さんが男性は残して別の三十半ばの女性を指名しました。年齢が近づいたためか、今度は男性が歩み寄って行きました。手をとるような仕草をしようとした瞬間――いきなり女性が平手打ちをくらわせたのです。男性の眼鏡が床に飛び落ち、会場にビビッと緊張の糸が張り巡らされ、男性の顔から微笑が消えて初めて真剣な表情になりました。
 その後の展開はよく覚えていないのですが、二人がハグして終わったような記憶があります。講評で、竹内さんが“種明かし”をしました。「何のためのレッスンなのか。この人をこのままでは帰せない、と思った」――竹内さんはそれ以上語りませんでしたが、男性は牧師だったんですね。

 隣人愛を説く職業柄かいつもほほえんでいるけれど、身体は他者の存在を受け入れていない。向き合うことすらできてない。この意識と身体の隔絶・・・。彼にとっては一種の死刑宣告だったかもしれません。その後も牧師を続けたのかどうか――辞めるにしても担い続けるにしても、どちらもいばらの道であったことは想像に難くありません。それは、他人事ではない、私自身にも重い体験となりました。ガシッと両肩をつかまれて、「おまえは何をうわべばかり取り繕ろおうとするんだ。生きているという実感を、この手に握りしめたくないのか」と激しく揺さぶられるような・・・。


(5)

 竹内さんはある本の中で「体の問題に気づくことは、地獄に通じる釜の蓋を開けるようなものだ」と述べてられます(おぼろげな記憶なので、正確な引用ではありません)。私もご多分に漏れず、そのワークショップ前後が人生の転換点となって、勤めを辞め、四国をお遍路して回り、横須賀から熊野に移って、周囲からは気が違ったと評され・・・思い描いていたレールは大いに曲がり、いえレールからころげ落ち、今は京都の下町で豆屋を営んでいます。

 では私は、あの時の体験から型を我が手に掴んだのか?いいえ、そんなことはありません。更に二十年近い時間が必要でした。結婚し、子どもをもうけ――それでも腰が定まらなかった私は、整体と出会い、師の下で稽古をつづける中で、型というもののかけがえのなさを感じられるようになった、というのが正直なところです。

 例えば・・・私は剣術も稽古していますが、それは流祖によってすでに型が創られており、後に続くものたちはただひたすら深めるだけなのです。そこにはオリジナリティーや創作といったものが入る余地は全くありません。二十代、三十代の私でしたら自分が枠に押し込められるようで窮屈に感じたでしょうが、不自由の中の自由こそ(大風呂敷を広げて言えば)近代的自我を超える道ではないか、と思っています。

 なぜ剣は45度に(44度でも46度でもなく)振り下ろさなければならないのか?その角度が最も力のモーメントが生まれる云々という合理的な解釈もあるでしょうが、それが身体感覚から生まれた型である、からなのです。なぜ畳の縁を踏んではいけないのか?それは縁がへたるからetc.という実際的な理由もあるでしょうが、場を汚す=美しくない、という一言に尽きるのではないかと思います。頭(知識)ではなく、体感として理解できるかどうか。

 体の問題すなわち意識と身体のズレに気づくことは、世間的には竹内さんが言われるように地獄(苦海)に落ちる結果になるかもしれません。ですが、整体の稽古で、身体と身体が意識を越えたところで触れ合うと私と他者の間に生命(いのち)が交流し、奇蹟としか名づけえぬものが顕(あらわ)れる・・・体験をすると、堕ちてこそ浮かぶ瀬もあれ――この世の地獄とは、個(弧)に閉ざされた自意識ではないか、と思えてくるのです。そして浄土とは、苦しみつつ生きる人と人が観念ではなく身体で共に喜び共に悲しむ、文字通り共生(ともいき)の世ではないだろうか、と・・・。

 では自我による自縄自縛から人を解き放つ方法は如何に?私は、クラウディア・ブラックが提唱している言葉によるアプローチの有効性は十分に認めた上で、身体の体験から与えられるいわば身体知にその可能性を感じています。具体的に言えば、目を閉じて体の内を観るという整体の内観的身体技法に、です。

 潜在意識を含めた精神と身体の乖離とは、誰にとっても死ぬまで抱えていくほかない課題でしょう。生者において重なるのは、聖人君子しかいないのですから。自然食、エコロジー、love & peace etc.を唱えている“わたし”の意識と、身体の欲求の焦点は、ほんとうはかけはなれているのではないか・・・と気づくことは、恐ろしくもありまた苦しい体験に違いありません。が、荒れ野へと踏み出すその一歩は、真の意味で成熟した人間(=型を生きられる大人)へと拓(ひら)かれている、と私は確信しています。半歩、前へ。



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